仕事と健康

健康に働くためのヒント

幕末の佐渡の堀だおれー能吏、川路聖謨(かわじとしあきら)が見た佐渡金山の鉱夫の労働と病気

川路聖謨は極貧の家に生まれ、幕府の要職を勤めるまでに出世し、日露交渉でも活躍したことで知られているが、佐渡一国騒動があった後これを処理するために佐渡奉行として赴任している。彼は聴訴、財務、庶務、検察など、何をやっても有能な人物であったといわれている。1840年佐渡奉行赴任中、1756年に石谷奉行の命で書かれた「佐渡四民風俗」の追記を命じた。佐渡の事情を知りたかったのであろう。追記前の佐渡四民風俗には鉱山の鉱夫は堀だおれ、疲れ大工といった病気のため短命で、この原因として石粉の塵埃、灯油の煙を吸い込み、換気不良の中長時間労働することをあげている。そこに追記された内容は、「金堀大工はカナコと言われる小経営者から金を借りて飯場に住んでいる。これを男を売る、といったという。仕事に慣れて上大工ともなると3−5年のうちに死亡することがお多いが、大工が病気になっても掘りだおれにしないで病中・病後も面倒を見るようになった。ご仁政のおかげである。」というものだった。

川路は佐渡奉行在任中に日記を残している。「島根のすさみ」という。この中に佐渡金山での労働がよくわかるような記述がある。1840年8月の日記である。その中で女子の労働者がいたこと、ことに銀の精錬は女の手で、ふいごの操作まで行われたこと、子供も働いていたこと、賃金が安いことなどが記録されている。また、鉱夫は山にはいいて7年も寿命を保てない、咳をしながら病気になり死んでいく。ただし、山師ともなれば、江戸の富豪のように豊かな生活をしている、とも書いている。9月には坑内の作業を垣間見ている。しかし奥の方へはとても奉行が行けるような場所ではなく、坑口から2,3間入って、採鉱の模擬動作や、水で洗ってからの女の鉱石の選別作業を視察している。水替小屋には島送りの江戸無宿人がいたが、佐渡では極めておとなしいと言っている。当時の鉱山はどこも坑が深くなるにつれ坑内の水には苦労し、その排水に多くの人手を要したようだ。人手不足であったので、幕府は1778年から江戸無宿人60人を送って、水替え人夫として使役していた。その労働は過酷で生きては帰れないような悲惨なものであったという。8月の日記に金堀大工の短命について更に詳しく書いている。鉱山で働くものは40歳を超えるものはなく、多くは3−5年のうちにやせ衰えて煤のような痰を吐くようになり死に至る。医師は酒色のせいだともいうが、坑内で鼻をかむと鼻から油煙がでる。油煙のせいで脳が敗れるという説も捨てがたい。といって奉行自ら職業病に注目している。また、その数日後の日記には、佐渡では金堀大工は煙毒で早死しるので、25歳になったら60歳にもなった心で祝った。これが佐渡の風習になったという。川路の佐渡勤務は一年間という短い期間であったが、物事をよく見極め、貴重な当時の佐渡金山の記録を残してくれている。