仕事と健康

健康に働くためのヒント

幕末の生野銀山の労働と健康

1煙毒予防と梅干し

生野銀山では19世紀前半から半ばにかけ、佐渡金山同様、生野銀山でも「煙毒」に悩まされていました。

江戸時代の生野銀山では、採鉱作業者が梅干しを口に含むことで「煙毒」予防を図っていた記録があるようです。

梅干しには酸性の液が含まれていて、これが粉じんを喀出しやすくする効果があるとされていました。具体的には、採鉱作業の合間に梅干しを口に含み、酸性の汁を唾液とともに嚥下することで気管支を潤し、喀痰を出しやすくしていたようです。

梅干しは軽量で持ち運びが容易、保存性も良好なうえに、栄養価もある食品だったため、労働者の口内炎予防にも一定の効果があったと考えられます。

ただし梅干しだけで塵肺を完全に予防することは困難で、あくまでも鉱山労働時の喀痰排出を手助けする補助的な対策だったと言えそうです。江戸時代の医学技術では塵肺の解決には限界があったようです。1842年に12月5日に煙毒除けの梅干しを割り当てる人数を書き留めた代官所記録が残されています。それによると梅干しの割当を受けたのは、計860人、(さく岩夫:520人、さく岩夫の助手:253人、水替人夫:71人、坑内差配:16人)でした。この人数が生野銀山の労働者数と考えると、そのうち年間30人程度が煙毒でなくなっていたことになり、煙毒は職業病と考えられて当然でした。また、生野の有力者に煙毒対策の薬を施薬するので代金を寄付してくれ、という代官所からの要請のありました。その結果、実際に「煙毒薬」は施薬されたがその内容については不明です。いずれにせよ多数の煙毒患者に悩まされており、その対策費の一部が生野の有力者の負担になっていたことは間違いなさそうです。

2多紀元堅(1795〜1857)の煙毒予防法

1846年(弘化3年)の勝田次郎が生野代官在任中の庁書備忘録によると、多紀元堅は、鉱夫たちが坑内作業を終えた後にくしゃみをすることを推奨していました。これにより、肺に染み込んだ油煙の気が自然に開放され、咳の問題も改善されると考えられていたようです​​。当時の江戸医学館総裁でありながら、教条主義的でない態度はその人柄から来るのであろうと思われる。

生野銀山孝義伝にみる煙毒

生野代官勝田次郎は麗澤館をつくり学問を奨励しました。また銀山内の孝子、節婦、忠僕を表彰したりもしました。これら表彰されたものの中から13人を選んでその行状を紹介し、「生野銀山孝義伝」を著しました。その中で伯父を鉱山労働による煙毒でなくしたが、その伯父の看病をしたり、その死後も祖母を看病をしたりした少女の話があります。その中で煙毒に関し、石屑がが肺に入って、煙毒を発症し、30歳位で死ぬ、40歳まで生きるのは少ない、と書いている。