仕事と健康

健康に働くためのヒント

2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧

19世紀末の鉱山の労働と健康⑤生野鉱山の鉱夫共済組合病院

1890年、明治政府は鉱業条例を制定し、鉱夫が就業中に負傷した場合の救済を決めているが、業務上の疾病に対しての救済は1906年の鉱業法を待たなければならなかった。しかし、これもまだ、不十分なもので、友子同盟のような江戸時代からの労働者自身…

19世紀末の鉱山の労働と健康④生野銀山の塵埃吸引病、鉱夫肺病ー佐藤英太郎の「鉱夫肺病」

1890年、先に触れた坪井次郎の教え子であった、生野の開業医、佐藤英太郎は「鉱夫肺病に就いて」という論文を発表している。その中で「 恩師坪井助教授 八 奥羽地方 山衛生的要 件 二就テ研究セラ レ其報告ヲ束京医学会二於テ演 説 シ鑽山 疾病トシテ外…

19世紀末の鉱山の労働と健康③生野銀山の塵埃吸引病、鉱夫肺病ー坪井次郎の塵埃吸引病

明治になるとほぼ同時期に生野銀山では近代化が図られ、フランス人技師が招かれ、フランス人技師のためのフランス人医師が雇われましたが、この時期にはじん肺についての記録は残っていない。じん肺が近代的な医学論文に現れるのは1890年になってからで…

19世紀末の鉱山の労働と健康②明治の鉱業法制

高島炭鉱問題は当時の炭鉱の悪い一例で、坑内労働はどこも劣悪な労働条件でした。このような状況に至った明治の鉱山法制がどのようなものであったのか、を見ていきます。まず、明治新政府は明治二年二月,行政官布告一七七号を出し,全国の鉱山に対ーする新…

19世紀末の鉱山労働と健康①高島炭鉱問題

高島炭鉱は長崎県西彼杵半島の西側にある高島という小島に存在した炭鉱です。 高島炭鉱は江戸時代から佐賀藩の管理下にあり、藩の許可を得た商人が経営していた。 1868年、佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同で高島炭鉱を経営する日英共同経営が始まった…

明治期のマッチ工業とりん中毒

富国強兵を国是とする明治政府にとって輸出産業を盛んにする必要があり、当時主要産業であった生糸に着目するのは当然で、フランス人技師ポール・ブリューナを招いて群馬県富岡市に1872年、日本初の機械製糸工場が創業を開始したことはよく知られている…