高島炭鉱は長崎県西彼杵半島の西側にある高島という小島に存在した炭鉱です。
高島炭鉱は江戸時代から佐賀藩の管理下にあり、藩の許可を得た商人が経営していた。
1868年、佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同で高島炭鉱を経営する日英共同経営が始まった。これが最初の近代的な経営者である。江戸時代後期から、高島炭鉱では納屋制度が導入されており以下のように、後藤象二郎の経営時代の高島炭鉱においても、囚人の労働が使役されていたことが確認できます。
- 工部省の官営期から後藤経営に引き継がれたのは、納屋制度だけでなく囚人労働も同様であった。
- 1875年12月のガス爆発事故で死傷者の中に、長崎県や福岡県の懲役囚が含まれていた。
- 明治政府は官営鉱山や工場で囚人労働を広汎に利用しており、高島も例外ではなかった。
- 労働力不足を囚人労働で補うとともに、囚人の低廉な労働費用が経済的動機だった。
- 三池炭鉱での囚人労働の実態から推測して、高島でも同様の扱いがあったと考えられる。
以上から、後藤象二郎の経営時代にも囚人が労働に動員されていたことが確認できます。労働力確保と低コストが目的であったと見られます。元土佐藩の上級武士であり、政府の高官を務めた経歴をもち、自由民権運動の指導者として一目置かれる後藤象二郎にとって炭鉱の坑夫、労働者たちは「人間」ではなかった。「坑夫達は通常の人間として考えてはならない。彼らは獣や鳥と同じで空腹を感じれば食べ物や飲み物を求め、明日のことは考えず、今日を知るのみだ。だから賃金を支払って食べ物や飲み物をたくさん与えれば、彼らはやがて逃走してしまい、今日のような高島炭坑の発展はあり得なかっただろう」と語っていたとのことです。
その後、1881年の三菱経営移管後当初は石炭販売が不調だったこともあって、解雇や賃下げといった経費削減が行われ、この経費削減に対して坑夫、労働者たちは数百名集まり暴動の様相を呈したという事態になりました。さらに労働者雇用に際して、わずかの金銭を貸し与えて借金による拘束状態に置き、坑夫労働者は炭鉱から容易に退去することが出来ませんでした。その上、「必ス其納屋頭及ヒ小頭等ノ保証書ヲ持参セシム其保証書ヲ持参セサル者ニハ決シテ乗船券ヲ売与セズ」と、高島と長崎間を結ぶ連絡船に乗船することを制限しました。坑夫たちは自由に離島することが出来なくなりました。さらに坑夫たちの島からの逃亡を防ぐために、会社は納屋頭と島民との間で「約定書」を取り交わさせて、島民による坑夫の逃亡監視に協力させています[吉本襄「高島炭坑坑夫虐遇ノ実況]。
三菱は高島を引継いだ時にはすでに坑夫、労働者たちの逃亡を想定して対策をとっていたのです。労働時間は坑内事業の難易によって区別し、その作業容易な場所では 12 時間、その難しい場所では 8 時間とされていました。ところが高島炭坑の鉱山技師ジョン・ストッダートによれば、労働時間は作業の性質や作業現場の状態に応じて時間の延長が行われました。また炭坑では年に2日あるいは3日の定休日を除いて止むことなく操業していました。しかし坑夫が望まないならば毎日作業する必要はなかったと云っています。彼が会社の書類簿を拝見したところ、一か月平均で 27 日間が実働日数だったということです。以上の様な労働条件や生活環境の下で会社、納屋頭、人繰から督促された坑夫、労働者たちが病気、伝染病や事故災害で死んでいきました。当時の高島炭坑事務所の報告によると、「明治十八年一月ヨリ仝廿一年六月ニ至ル死亡表」に「呼吸器系」「消化器系」「全身病系」「伝染病系」「自死」「誤死」「外傷」などの死因で 1885(明治 18 年)に 844 名、明治 19 年に 280 名、明治 20 年に127 名、明治 21 年に 33 名となっています[高島炭坑衛生ノ記事] 。とりわけ 1885(明治 18)年の死者 844 名は労働者 2,000 人(1884 年 9 月現在)のほぼ 42%に当たります。この年は高島でコレラが発病し 80 余名が死亡し、翌年には天然痘で死者 99 人を出しています[高島炭坑事務長日誌抜要]。過重労働で体力低下によるのか、食料事情なのか、劣悪な住環境なのか、それとも甘言に騙されて逃げることもできない状況で絶望してか、いずれにせよ驚くべき数字です。当時の日本人もこうした高島炭坑の悲惨な状況に対して驚き憤慨していたようで[明治文化全集、第六巻、社会篇]、1888年6月、雑誌「日本人」にこの雑誌の発行所の政教社員である松岡好一の実地4ヶ月の労働体験に基づくという「高島炭鉱の惨状」と題した暴露記事が掲載され、この問題に火をつけました。内務省でもこの問題を無視するわけに行かず、警保局長清浦奎吾を派遣して視察させました。その結果労働条件と坑夫の待遇改善を命じたので、多少の待遇改善が見られたようです。この当時、まだ坑夫の安全衛生に関連する法律はなく、1890年布告され、1892年に施行された鉱業条例によってはじめて僅かではありますが、安全衛生並びに扶助に関連する項目が取り入れられることとなります。そこでは労働時間の制限、14歳以下の労働者の就業時間の制限、坑夫に過失がない場合の負傷に対する補償、死亡時の埋葬料、遺族への補償、などが規定されています。