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明治期のマッチ工業とりん中毒

富国強兵を国是とする明治政府にとって輸出産業を盛んにする必要があり、当時主要産業であった生糸に着目するのは当然で、フランス人技師ポール・ブリューナを招いて群馬県富岡市に1872年、日本初の機械製糸工場が創業を開始したことはよく知られている。また1875年には東京芝に零細化学工場の代表である、マッチ工場が設立されている。ここではマッチ工業とりん中毒について述べます。現在ではマッチといえば安全マッチを意味しますが、明治時代には、安全マッチと摩擦マッチの2種類のマッチが製造されていました。

安全マッチは発火性の赤燐を箱の側面に塗布し、マッチの燃える部分と分離することで、誤って引っ掻いても発火しないようにしたものです。摩擦マッチは、壁や靴裏などの摩擦面に向けてマッチをこすりつけて発火させるマッチで、火種を移す必要がないために広く使用されました。

現在ではマッチといえば安全マッチを意味しますが、摩擦マッチは頭薬に用いる薬剤によって黄燐マッチ、赤燐マッチ、硫化マッチに分けられますが、現在ではすべて安全マッチになっているようです。日本で最初にマッチ工場を始めたのは清水誠という金沢藩出身の元武士で、フランス留学の後、1875年東京芝に仮工場を設立します。ここで黄燐を使ったマッチを製造し、評判が良く、輸出産業を育成したい政府の意向と一致し、政府の保護を受け、1876年には東京本所柳原町に本格的な工場を建設し、新燧社(しんすいしゃ)を設立します。1879年には清水誠は輸入マッチの販売店洋品業者)に呼びかけて「開興商社」という組合を設立し、輸入マッチを排除して国産品を販売するようにしたため1880年には外国製品の輸入を防ぐことができるようになったとのことです。その後大阪、名古屋、静岡などでもマッチ製造が始まり、1894年には日本燐寸義会が設立されるほどであった。しかし、マッチ工場は零細なものが多く、児童労働などもあったようです。この頃のマッチ工場の様子は横山源之助の「日本之下層社会」に詳しい。黄燐中毒については明治18年に石川清忠という人が大日本私立衛生会で「工業病並びに予防法」という講演の中で燐について工場衛生上の問題として、燐による慢性中毒としての下顎壊死があることを挙げています。黄燐マッチの製造、使用は衛生上危険が少なくないので政府は1885年一旦製造を禁止していますが、国内マッチ工業が盛んになり、外国市場での需要も増加したため、1890年製造禁止を解除することになります。当時、黄燐マッチは安全マッチに比べて値段が安く、そのため販路を脅かされた安全マッチの業者の策動によるもので、燐中毒防止がこの製造禁止の唯一の目的ではなかったとも言われています。だた、黄燐マッチ製造がさかんであった兵庫県では、製造解禁となったときに、製造工程や工場内での飲食禁止、黄燐含量などを定めた取締規定を作っています。学会では黄燐マッチの使用による燐中毒、製造工程における黄燐中毒が頻繁に指摘されていました。また、ヨーロッパでは1906年マッチ製造での黄燐の使用禁止、つまりベルヌの条約に加わりましたが、日本政府は「黄燐の使用は有害なるべし、されどそれは目下調査中なり」として加盟しませんでした。1916年工場法が施行されて、黄燐の障害の実態がわかって、1919年に開かれた第一回国際労働総会の決議を取り入れ、1921年黄燐燐寸禁止法を発布し、同年やっとベルヌ条約に加盟しました。ヨーロッパに遅れること15年でした。