仕事と健康

健康に働くためのヒント

19世紀末の鉱山の労働と健康⑤生野鉱山の鉱夫共済組合病院

1890年、明治政府は鉱業条例を制定し、鉱夫が就業中に負傷した場合の救済を決めているが、業務上の疾病に対しての救済は1906年の鉱業法を待たなければならなかった。しかし、これもまだ、不十分なもので、友子同盟のような江戸時代からの労働者自身による全国的な共済組織が広がっていくことになる。このような共済組合として、生野銀山では日本で最初の鉱夫共済組合病院が創立される。これには、工学博士大島道太郎と前述の佐藤英太郎医師が関係している。佐藤が鉱夫共済組合について次のように報告している。「 世ノ政治家論客口ヲ開ケハ日ク我邦ヲシテ工業國 タラシメザルベカラズ日殖産興業ヲ希図セザルベカラスト、凡ソ是等ノ声ハ全国 何レノ地トシテ聞ヵ ザルナク世 運ハ駸駸トシテ此方向二進ミツツアリ、然ルニ之レガ原動力タル下層職工ノ保護問題二至リテハ関トシテ之 レヲ説クモノアルヲ聞ヵス、近来各地二於テ同盟罷工等嫌フヘキ忌ムヘキ挙動ノ現出スルニ 及ヒ漸ク此問題ノ研究ヲ忽ニスヘカラサルノ観念ヲ惹キ起シタルカ如シ・・・」つまり、殖産興業を進めるにはその原動力たる労働者の保が必要であると言っている。さらに、職工を安心立命させるには傷病保険が一番であると言っている。佐藤英太郎は明治23年 (1890) 以来, 生野鉱山の傭医であ ったが, 生野鉱山の鑽夫共済組 合 は,明治25年 (1892) 1 月に宮内省御料局生野支庁の技長であった大島道太郎が提案したと書いている。大島は留学中にビスマルクの社会政策にふれていた。 ビスマルクの政策は①一般的な国家の利益を調和し得る限り,生産, 交通, 価格の諸事情の変化に伴って正当性を持つようになった労働者 の希望を立法で迎えてやること, ②国 家を危険におとしいれる煽動に対して、禁止および刑罰の法規によってこれを防止するというように、「 飴と鞭」を利用するものであった。ビスマルクの社会政策 は上記 の方針に従って、1878年社会主義者取締法と、1883年の世界に先がける疾病保険と、1889年の老廃疾保険によって実施されたのであった。このうち疾病保険の強制被保険者は農業 , 運輸業を除いた主要な鉱工業の労働者と職員で, 保険の負担の3 分の 2 が労働者、3 分の1 が雇主の負担であった。 この保険 の担当者としては、 既存の各種経済金庫を利用し, 市町村のよる地区疾病金庫と工場ないし、経営疾病金庫がその中心となって担当した。大島はこのドイツの疾病保険を参考にしてわが国最初の共済組合を案出し, 表面は鉱夫の惣代から組合の実施を請い、同時に補助を仰ぎたいという嘆願書を出させ、その後で1892年1 月から御料局生野支庁共済組合の名称で事業をはじめ、 事務員 3 名, 医員 2 名をおいた。この共済組合の規約をつくるにあたって、佐藤もこれに関与した。佐藤英太郎は, はじめ自宅診療所で一般開業医のように組合員である職夫の病傷者を診療し、その治療費を毎月組合事務所に請求していたが、組合が大きくなるに連れ、不便になってきたので、1893年10月 1 日から 生野鉱山の旧お雇外国人の官宅であった家に診療所を設け、医員と調剤員を増員し、薬品や器械を購入して病院的な組織にして、佐藤が医務所長として専ら診療に従事し薬品その他治療上必要な諸物品は全て組合会計員が購入支給 することにして, この共済組合は次第に発展してきた。1896年に生野銀山が三菱合資会社に払い下げられた後も、宮内省からは、組合を十分保護して永遠に維持するという条件がつけられていたので、三菱もこれを引き継ぐ形となった。三菱はこの後、共済組合を発展させて、1897年、共済組合病院を建設した。佐藤は病院長に就任した。共済組合では組合員を、常雇と臨時雇いに分け、前者については業務上だけではなく、一般の傷病、妻子の傷病まで治療している。さらに災害時の扶助まで行っていて、現在で言う、健康保険と労災保険を一緒にしたような制度であった。当時、日本で最大の足尾銅山の共済制度よりも生野鉱山の共済組合が進んでいたのは, 出発が国営企業であったこと、また大島道太郎や佐藤英太郎のように先見性のある人物に恵まれたことが大きいであろう。