仕事と健康

健康に働くためのヒント

坑夫の自助的救済組織である友子

1友子とは

江戸時代の鉱山では煙毒の記録は数多くあるが、災害記録は殆どない。しかし実際には災害による被害も多かったことは想像に難くない。こうした災害に対する死亡や、労務不能となった場合の社会的補償制度も確立していない時代であった。こうした厳しい労働環境と不安定な雇用状況の中で、労働者が生活と仕事を支えるために自然発生的に形成されたのが友子制度と言えるでしょう。友子制度は、大正時代から昭和時代初期にかけて存在しました。20世紀初頭に最盛期を迎えた後、鉱山業の近代化、労働市場の変化、企業による労働者管理の強化、労働組合の台頭などにより徐々に衰退した。具体的な終焉の時期は文献によって異なるが、第二次世界大戦前後にはその影響力を大きく減少させていった。1920年の農商務省鉱山局の出版した「友子同盟に関する調査」には次のような記載がある。「徳川時代より一般坑夫間に行われる習慣によれば坑夫となるには一定の形式に従いて取り立てらるるを要し、取り立てを受けたる坑夫はこれを友子と称し、全国の友子は一団をなし、友誼を重んじ互いに災害を共済するものとす、これを坑夫の交際といい、かかる坑夫の団体を友子同盟という」ここで言う「取り立て」とは同職者として坑夫として承認されることで、坑夫として出世するという考え方に立っていた。これは厳重な儀式であり、形式、格式を重んじていたようだ。取り立てが終わると新大工として3年3ヶ月の間親分に奉公し、奉公終了を持って普通会員の資格が得られた。これを中老とよび親分または兄分として子分や弟分を持つ権利ができた。中老から選ばれた「大番頭」と「箱元」が友子集団の運営を行った。新大工や中老の上に元老があった。元老になるには友子として取り立てられて30年経過したものがその資格を得た。

2友子の伝承

友子は取り立てられると「坑夫権利由来記」という文書を写し取り「友子心得」と一緒に所持していたようである。この坑夫権利由来記には徳川家康から坑夫は野武士として取り立てられたとの記載がある。これは史実というより伝説的なものであるが、幕府は鉱業政策上、金堀を保護する必要があり、そのため江戸時代の鉱山法が生まれてきたようだ。山師、金堀師は野武士の格式で関所の往来もゆるやかにしたのは、当時、すでに鉱山の仕事は危険で不衛生であったし、ときに金堀師が不足して鉱山が衰退することもあったことから、政策として金堀師を優遇せざるを得なかったのであろう。友子制度は共済組合制度の代用の働きをしたと言える。実際、江戸時代に友子制度が具体的にどのように機能したかを示す記録は残っていない。友子の活動については大正や昭和のはじめに記録を参考することにする。