仕事と健康

健康に働くためのヒント

軽粉製造と水銀中毒

 

水銀鉱山として有名であった松坂では平安末から鎌倉時代にかけて水銀製のおしろい(はらや)が製造されて、今日の貴族や上流階級の化粧に愛用された。松坂の射和では世襲の白粉座があり、室町時代の文政年間が最盛期であった。射和の白粉の製法は朱中山の赤土で築いたかまどの上に直経10cmほどの穴をあけた鉄板をのせ、その穴の中に深い鉄鍋を入れる。鍋の中に食塩NaClと苦汁MgCl2と赤土(朱中山という土)を練ったものを入れ、さらに小さじ一杯の水銀を入れ、多気町の荒蒔の土でつくった素焼きの鉢(ほっつき)を下向きに伏せて約4時間、約600℃(Hg2Cl2の昇華点383.2℃)で下から焚きあげると塩化水銀(Ⅰ)が帰化して伏せたお椀の内側にくっつく。それを羽ぼうきでかき落としたのが1ミクロン程度の真っ白の結晶である。これが伊勢白粉で甘汞Hg2Cl2である。しかし他の地方で鉛製白粉が製造されるようになって、水銀白粉の製造は衰微したが、鎌倉時代には薬用として皮膚病に水銀製剤の軽粉として外用された。内服されるようになったのは梅毒流行以来のことである。その他軽粉はノミや寄生虫の駆除薬として利用されたし、下剤としても用いられたようだ。

この軽粉製造は水銀を焼くのでその本家を窯元と言って仲間の組織は固く窯の権利は厳重に管理されていたようだ。

射和には、江戸時代の明和5年には15~16軒の釜元があり、白粉座の以下の申し合わせを確認している。1公儀が定めた法律を守ること、2白粉をつくる仕事に他所出身の者を雇わない。3他所に嫁ぐ、引っ越すことを禁止している。4企業秘密を厳重に仲間内で守ること。5身体が不自由になった者は座仲間に申し出て、継続ができるように助け合うこと、などです。これらの厳重な取り決めは軽粉製造によって中毒の発生があったことを思わせます。水銀を加熱する過程で発生する水銀蒸気で健康を害する者の多かったことは当然で江戸後期から明治初期にかけて16株の窯元に対して40〜50件に登る窯元の株譲渡が行われたそうで、しかもその理由は本人の病気というのが多かった。(伊勢の白粉、日本産業史体系6、近畿地方篇、東大出版会、1960)水銀中毒という職業病のために多くの人がこの仕事から離れていったことがこの産業が発展しなかったことの理由の一つであることは間違いない。