仕事と健康

健康に働くためのヒント

19世紀末の鉱山の労働と健康③生野銀山の塵埃吸引病、鉱夫肺病ー坪井次郎の塵埃吸引病

明治になるとほぼ同時期に生野銀山では近代化が図られ、フランス人技師が招かれ、フランス人技師のためのフランス人医師が雇われましたが、この時期にはじん肺についての記録は残っていない。じん肺が近代的な医学論文に現れるのは1890年になってからである。国政医学会雑誌、36号、1890年3月、坪井次郎の「塵埃吸引病」という論文である。これは1889年12月の国政医学会における講演を記録したものだ。「塵埃吸引病」とは、文字通り塵埃を吸引して生ずる病気であるが、坪井によると「我邦に在りては未だこれを記載せしもの多からず」となっている。また、塵埃をどこにでもあるものと、工場などで発生する特別の塵埃とに分類し、後者を吸引しておこるのがいわゆる「塵埃吸引病」であり、現在のじん肺にあたるものである。「特別の塵埃を吸引しこれがために恐るべき病を生することあり、これ一定の工業場内に起こるところのものにして、いわゆる塵埃吸引病なり」と述べ、この病気の発生する職業として、石工、鍛冶職、坑夫、ガラス細工人、金属を取り扱う細工師、煙草職、磨粉職、養蚕家、などをあげている。塵埃のうち、無機性塵埃のがいが大きいと、次のように述べている。「塵埃吸引病の名の由りて起こるところは主として無機性塵埃にありトス、特に無機性塵埃中必要なる点はその塵埃の形状なり、たとえこれを吸引するもその形まるく、あるいは不正なるも、鈍角なるときははなはだしき害なし、これに反し、その塵埃の小なるも、その形鋭角なるもの、例えばガラス粉の如きはすこぶる危害なりとす、これ、その粘膜を刺激して、カタルをきたし、あるいは損傷を生じ、漸次慢性の肺炎症をおこすものなり、而して、この慢性炎症自体は敢えて危篤の症に陥ることなしといえども、病的黴菌、例えば結核菌の如きは続発的にカタルあるいは損傷部より侵入し結核は漸次播種してもって病巣を作るに至るものなり、故に無機性塵埃は癌説に病的黴菌の侵襲を媒介し、もって健康上に害を及ぼすものとす、これ実にそれ以前日本鉱山中に岩石を掘る坑夫の肺結核にかかるもの多く、概ね30歳前後に倒れたるを見ても知るべきなり」

当時は塵肺よりも結核でなくなるものが多かったので、結核の原因をじん肺による慢性炎症と考えていたようである。また、予防法として①塵埃の多く発生する場所の湿潤化、②換気、③工場に寝泊まりしない、④防塵マスクの使用を、挙げている。坪井がこの論文を発表した、同じ年に生野の開業医佐藤英太郎が「鉱夫肺病に就いて」という論文を発表している。

19世紀末の鉱山の労働と健康②明治の鉱業法制

高島炭鉱問題は当時の炭鉱の悪い一例で、坑内労働はどこも劣悪な労働条件でした。このような状況に至った明治の鉱山法制がどのようなものであったのか、を見ていきます。まず、明治新政府は明治二年二月,行政官布告一七七号を出し,全国の鉱山に対ー
する新政府の王有権と,未採掘鉱物の採掘をすべての人に解放するいわゆる鉱業自由の原則を宣言しました。つづく明治五年,政府は「鉱山心得」を出しました。すなわち「此鎖物ナルモノ都テ政府ノ所有トス故ニ独リ政府ノミ之ヲ開採スル分義アリ J. r錆物ハ…・・・政府ノ所有物ニシテ地主ノ私有ニ非ス」とし、鉱物の所有権を土地所有権から分縦しました。翌明治六年に出された「日本坑法」もこれをひきついで、,鉱物の所有権を土地所有権から分離しました。そしてこれを政府の所有となし,一般私人は政府から坑区を借区して開坑するという規定を取りました。これは純然たる産業政策上必要な立法であって、坑夫の安全衛生に関する条項はありませんでした。しかし、高島炭鉱問題などを発端として、1890年安全衛生並びに扶助に関係ある項目を盛り込んだ鉱業条例が布告され、1892年6月1日に施行されました。その第5章の「鉱業警察」の第58条で「1、坑内及び鉱業に関する建築物の保安、1、坑夫の生命及び衛生上の保護、1、地表の安全及び公益の保護」をあげ、これは農商務大臣が監督し鉱山監督署長これを行うとしています。また第59条で鉱業上に危険のおそれがあり、または公益を害すると認められるときは鉱山監督署長は鉱業人にその予防を命じたり、鉱業の停止を命じ得るといっている。第6章は「坑夫」で坑夫の保護が定められています。ここでは12時間を超える労働の制限、14歳以下の就業時間の制限、負傷した場合の補償などについて、規定されています。さらに1892年鉱業警察規則が交付され、炭鉱や金属山の通気量や、炭鉱のガス爆発予防、安全灯に関する項目が規定されています。その後1905年には「鉱業法」が制定されてます。この鉱業法で鉱夫保護に関するのは第5章で、鉱業条例では就業中の負傷に関してのみ扶助を定めていましたが、鉱業法では業務上の疾病に関しても取り上げられました。しかし、実際には鉱業関係で業務上疾病と認められたのは1921年10月、ワイル病が、1929年眼球振盪症が、1930年、3年以上継続して勤務して珪肺にかかった場合、くらいでまだまだ不十分と言わざるを得ない状況でした。このような状況下だったので友子制度が存続せざるを得なかった理由が十分にあったのです。

19世紀末の鉱山労働と健康①高島炭鉱問題

高島炭鉱長崎県西彼杵半島の西側にある高島という小島に存在した炭鉱です。

高島炭鉱は江戸時代から佐賀藩の管理下にあり、藩の許可を得た商人が経営していた。

1868年、佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同で高島炭鉱を経営する日英共同経営が始まった。これが最初の近代的な経営者である。江戸時代後期から、高島炭鉱では納屋制度が導入されており以下のように、後藤象二郎の経営時代の高島炭鉱においても、囚人の労働が使役されていたことが確認できます。

  • 工部省の官営期から後藤経営に引き継がれたのは、納屋制度だけでなく囚人労働も同様であった。
  • 1875年12月のガス爆発事故で死傷者の中に、長崎県や福岡県の懲役囚が含まれていた。
  • 明治政府は官営鉱山や工場で囚人労働を広汎に利用しており、高島も例外ではなかった。
  • 労働力不足を囚人労働で補うとともに、囚人の低廉な労働費用が経済的動機だった。
  • 三池炭鉱での囚人労働の実態から推測して、高島でも同様の扱いがあったと考えられる。

以上から、後藤象二郎の経営時代にも囚人が労働に動員されていたことが確認できます。労働力確保と低コストが目的であったと見られます。元土佐藩の上級武士であり、政府の高官を務めた経歴をもち、自由民権運動の指導者として一目置かれる後藤象二郎にとって炭鉱の坑夫、労働者たちは「人間」ではなかった。「坑夫達は通常の人間として考えてはならない。彼らは獣や鳥と同じで空腹を感じれば食べ物や飲み物を求め、明日のことは考えず、今日を知るのみだ。だから賃金を支払って食べ物や飲み物をたくさん与えれば、彼らはやがて逃走してしまい、今日のような高島炭坑の発展はあり得なかっただろう」と語っていたとのことです。

その後、1881年の三菱経営移管後当初は石炭販売が不調だったこともあって、解雇や賃下げといった経費削減が行われ、この経費削減に対して坑夫、労働者たちは数百名集まり暴動の様相を呈したという事態になりました。さらに労働者雇用に際して、わずかの金銭を貸し与えて借金による拘束状態に置き、坑夫労働者は炭鉱から容易に退去することが出来ませんでした。その上、「必ス其納屋頭及ヒ小頭等ノ保証書ヲ持参セシム其保証書ヲ持参セサル者ニハ決シテ乗船券ヲ売与セズ」と、高島と長崎間を結ぶ連絡船に乗船することを制限しました。坑夫たちは自由に離島することが出来なくなりました。さらに坑夫たちの島からの逃亡を防ぐために、会社は納屋頭と島民との間で「約定書」を取り交わさせて、島民による坑夫の逃亡監視に協力させています[吉本襄「高島炭坑坑夫虐遇ノ実況]。
三菱は高島を引継いだ時にはすでに坑夫、労働者たちの逃亡を想定して対策をとっていたのです。労働時間は坑内事業の難易によって区別し、その作業容易な場所では 12 時間、その難しい場所では 8 時間とされていました。ところが高島炭坑の鉱山技師ジョン・ストッダートによれば、労働時間は作業の性質や作業現場の状態に応じて時間の延長が行われました。また炭坑では年に2日あるいは3日の定休日を除いて止むことなく操業していました。しかし坑夫が望まないならば毎日作業する必要はなかったと云っています。彼が会社の書類簿を拝見したところ、一か月平均で 27 日間が実働日数だったということです。以上の様な労働条件や生活環境の下で会社、納屋頭、人繰から督促された坑夫、労働者たちが病気、伝染病や事故災害で死んでいきました。当時の高島炭坑事務所の報告によると、「明治十八年一月ヨリ仝廿一年六月ニ至ル死亡表」に「呼吸器系」「消化器系」「全身病系」「伝染病系」「自死」「誤死」「外傷」などの死因で 1885(明治 18 年)に 844 名、明治 19 年に 280 名、明治 20 年に127 名、明治 21 年に 33 名となっています[高島炭坑衛生ノ記事] 。とりわけ 1885(明治 18)年の死者 844 名は労働者 2,000 人(1884 年 9 月現在)のほぼ 42%に当たります。この年は高島でコレラが発病し 80 余名が死亡し、翌年には天然痘で死者 99 人を出しています[高島炭坑事務長日誌抜要]。過重労働で体力低下によるのか、食料事情なのか、劣悪な住環境なのか、それとも甘言に騙されて逃げることもできない状況で絶望してか、いずれにせよ驚くべき数字です。当時の日本人もこうした高島炭坑の悲惨な状況に対して驚き憤慨していたようで[明治文化全集、第六巻、社会篇]、1888年6月、雑誌「日本人」にこの雑誌の発行所の政教社員である松岡好一の実地4ヶ月の労働体験に基づくという「高島炭鉱の惨状」と題した暴露記事が掲載され、この問題に火をつけました。内務省でもこの問題を無視するわけに行かず、警保局長清浦奎吾を派遣して視察させました。その結果労働条件と坑夫の待遇改善を命じたので、多少の待遇改善が見られたようです。この当時、まだ坑夫の安全衛生に関連する法律はなく、1890年布告され、1892年に施行された鉱業条例によってはじめて僅かではありますが、安全衛生並びに扶助に関連する項目が取り入れられることとなります。そこでは労働時間の制限、14歳以下の労働者の就業時間の制限、坑夫に過失がない場合の負傷に対する補償、死亡時の埋葬料、遺族への補償、などが規定されています。

明治期のマッチ工業とりん中毒

富国強兵を国是とする明治政府にとって輸出産業を盛んにする必要があり、当時主要産業であった生糸に着目するのは当然で、フランス人技師ポール・ブリューナを招いて群馬県富岡市に1872年、日本初の機械製糸工場が創業を開始したことはよく知られている。また1875年には東京芝に零細化学工場の代表である、マッチ工場が設立されている。ここではマッチ工業とりん中毒について述べます。現在ではマッチといえば安全マッチを意味しますが、明治時代には、安全マッチと摩擦マッチの2種類のマッチが製造されていました。

安全マッチは発火性の赤燐を箱の側面に塗布し、マッチの燃える部分と分離することで、誤って引っ掻いても発火しないようにしたものです。摩擦マッチは、壁や靴裏などの摩擦面に向けてマッチをこすりつけて発火させるマッチで、火種を移す必要がないために広く使用されました。

現在ではマッチといえば安全マッチを意味しますが、摩擦マッチは頭薬に用いる薬剤によって黄燐マッチ、赤燐マッチ、硫化マッチに分けられますが、現在ではすべて安全マッチになっているようです。日本で最初にマッチ工場を始めたのは清水誠という金沢藩出身の元武士で、フランス留学の後、1875年東京芝に仮工場を設立します。ここで黄燐を使ったマッチを製造し、評判が良く、輸出産業を育成したい政府の意向と一致し、政府の保護を受け、1876年には東京本所柳原町に本格的な工場を建設し、新燧社(しんすいしゃ)を設立します。1879年には清水誠は輸入マッチの販売店洋品業者)に呼びかけて「開興商社」という組合を設立し、輸入マッチを排除して国産品を販売するようにしたため1880年には外国製品の輸入を防ぐことができるようになったとのことです。その後大阪、名古屋、静岡などでもマッチ製造が始まり、1894年には日本燐寸義会が設立されるほどであった。しかし、マッチ工場は零細なものが多く、児童労働などもあったようです。この頃のマッチ工場の様子は横山源之助の「日本之下層社会」に詳しい。黄燐中毒については明治18年に石川清忠という人が大日本私立衛生会で「工業病並びに予防法」という講演の中で燐について工場衛生上の問題として、燐による慢性中毒としての下顎壊死があることを挙げています。黄燐マッチの製造、使用は衛生上危険が少なくないので政府は1885年一旦製造を禁止していますが、国内マッチ工業が盛んになり、外国市場での需要も増加したため、1890年製造禁止を解除することになります。当時、黄燐マッチは安全マッチに比べて値段が安く、そのため販路を脅かされた安全マッチの業者の策動によるもので、燐中毒防止がこの製造禁止の唯一の目的ではなかったとも言われています。だた、黄燐マッチ製造がさかんであった兵庫県では、製造解禁となったときに、製造工程や工場内での飲食禁止、黄燐含量などを定めた取締規定を作っています。学会では黄燐マッチの使用による燐中毒、製造工程における黄燐中毒が頻繁に指摘されていました。また、ヨーロッパでは1906年マッチ製造での黄燐の使用禁止、つまりベルヌの条約に加わりましたが、日本政府は「黄燐の使用は有害なるべし、されどそれは目下調査中なり」として加盟しませんでした。1916年工場法が施行されて、黄燐の障害の実態がわかって、1919年に開かれた第一回国際労働総会の決議を取り入れ、1921年黄燐燐寸禁止法を発布し、同年やっとベルヌ条約に加盟しました。ヨーロッパに遅れること15年でした。

 
 

タイトル: 「私の研修医時代 - 過酷な日々の記憶」

30年位前、厚生労働省直轄の病院での研修医としての私の日々は、今振り返っても信じられないほどの過酷さでした。朝6時、まだ夜が街を覆っている静かな時間から、私の一日は始まります。採血に回るこの時間、病棟は静寂に包まれていて、私は患者さん一人一人のベッドを訪れ、必要な血液サンプルを採取します。この作業は、私にとっては日常のルーティンであり、患者さんの健康状態を把握する最初のステップでした。

その後、手術室での助手業務が待っています。「こうひき」という第二助手で、前夜の疲れで手術中睡魔に襲われることも珍しくありませんでした。同僚も同じような感じだったと思います。

手術が一段落すると、標本整理という作業が待ってます。これは例えば、胃切除であれば切除された胃をきれいに広げて、更に周囲の組織からリンパ節を取り出し、病理検査で見てもらえるように標本づくりをする作業です。結構めんどくさいですが、大事な作業なので手は抜けません。これによって術後の治療方針が決まるので。週に一回手術カンファレンスがあり、標本整理のあと症例提示の準備に取り掛かります。このときすでに午後6〜7時位のことが多く、それから病棟回診して一応7時半位にルーチンが終了といった感じで、研修医はそれからカルテ書き、翌日の採血の準備で終わるのは9〜10時くらいでした。カルテ書きはともかく、採血の準備までなんでやらないといけないのか不満でした。最もこれでもすべてが順調に行った場合で、一応のルーチン作業が終わってからも、ポケットベルが鳴れば、細々とした対応をさせられ、夜間の緊急手術のために呼び出されることもしばしばでした。深夜の緊急手術の際に不在であればあとから嫌味を言われることもありました。

この繰り返しの中で、睡眠時間はわずか4〜5時間程度。休む暇も殆ど無い上に、当時の研修医はアルバイト扱いで、時給は約1300円程度。勤務時間は公式には9:00〜15:00位とされていましたが、残業手当はなく、実際にはそれを遥かに超える労働を強いられていました。月の給料は12〜3万でした。休日という概念はほぼ存在せず、ポケットベルで常に呼び出される状態でした。更に頭にくることは、その当時給料は現金支払いでしたが、僅かなスキマ時間で給料を取りに行くと、事務員は今休憩中だと言って出してくれなかったりしたことです。今はどうなってるか知りませんが、当時は研修医は人間扱いされてなかったと思います。明らかに新人看護師以下の扱いでした。(看護師は全員正規の公務員)。最も当時は自分もそんなもんか、位にしか思ってませんでしたが。

最近、専攻医が自殺したという悲しいニュースがありましたが、私の研修医時代から現在に至るまで、ニュースにはならないものの、私の先輩でも夜昼なく働いていた方は早死したり、あるいは突然ししたり、という話も耳にします。労働衛生学的にも、不規則な勤務は健康に悪影響があることは指摘されています。私の研修医時代は医師としての技術や知識も「ある程度」養われたとは思います。しかしその長時間の強制的「自己研鑽」のわりに得られるものは少なかったと思います。

坑夫の自助的救済組織である友子

1友子とは

江戸時代の鉱山では煙毒の記録は数多くあるが、災害記録は殆どない。しかし実際には災害による被害も多かったことは想像に難くない。こうした災害に対する死亡や、労務不能となった場合の社会的補償制度も確立していない時代であった。こうした厳しい労働環境と不安定な雇用状況の中で、労働者が生活と仕事を支えるために自然発生的に形成されたのが友子制度と言えるでしょう。友子制度は、大正時代から昭和時代初期にかけて存在しました。20世紀初頭に最盛期を迎えた後、鉱山業の近代化、労働市場の変化、企業による労働者管理の強化、労働組合の台頭などにより徐々に衰退した。具体的な終焉の時期は文献によって異なるが、第二次世界大戦前後にはその影響力を大きく減少させていった。1920年の農商務省鉱山局の出版した「友子同盟に関する調査」には次のような記載がある。「徳川時代より一般坑夫間に行われる習慣によれば坑夫となるには一定の形式に従いて取り立てらるるを要し、取り立てを受けたる坑夫はこれを友子と称し、全国の友子は一団をなし、友誼を重んじ互いに災害を共済するものとす、これを坑夫の交際といい、かかる坑夫の団体を友子同盟という」ここで言う「取り立て」とは同職者として坑夫として承認されることで、坑夫として出世するという考え方に立っていた。これは厳重な儀式であり、形式、格式を重んじていたようだ。取り立てが終わると新大工として3年3ヶ月の間親分に奉公し、奉公終了を持って普通会員の資格が得られた。これを中老とよび親分または兄分として子分や弟分を持つ権利ができた。中老から選ばれた「大番頭」と「箱元」が友子集団の運営を行った。新大工や中老の上に元老があった。元老になるには友子として取り立てられて30年経過したものがその資格を得た。

2友子の伝承

友子は取り立てられると「坑夫権利由来記」という文書を写し取り「友子心得」と一緒に所持していたようである。この坑夫権利由来記には徳川家康から坑夫は野武士として取り立てられたとの記載がある。これは史実というより伝説的なものであるが、幕府は鉱業政策上、金堀を保護する必要があり、そのため江戸時代の鉱山法が生まれてきたようだ。山師、金堀師は野武士の格式で関所の往来もゆるやかにしたのは、当時、すでに鉱山の仕事は危険で不衛生であったし、ときに金堀師が不足して鉱山が衰退することもあったことから、政策として金堀師を優遇せざるを得なかったのであろう。友子制度は共済組合制度の代用の働きをしたと言える。実際、江戸時代に友子制度が具体的にどのように機能したかを示す記録は残っていない。友子の活動については大正や昭和のはじめに記録を参考することにする。

幕末の生野銀山の労働と健康

1煙毒予防と梅干し

生野銀山では19世紀前半から半ばにかけ、佐渡金山同様、生野銀山でも「煙毒」に悩まされていました。

江戸時代の生野銀山では、採鉱作業者が梅干しを口に含むことで「煙毒」予防を図っていた記録があるようです。

梅干しには酸性の液が含まれていて、これが粉じんを喀出しやすくする効果があるとされていました。具体的には、採鉱作業の合間に梅干しを口に含み、酸性の汁を唾液とともに嚥下することで気管支を潤し、喀痰を出しやすくしていたようです。

梅干しは軽量で持ち運びが容易、保存性も良好なうえに、栄養価もある食品だったため、労働者の口内炎予防にも一定の効果があったと考えられます。

ただし梅干しだけで塵肺を完全に予防することは困難で、あくまでも鉱山労働時の喀痰排出を手助けする補助的な対策だったと言えそうです。江戸時代の医学技術では塵肺の解決には限界があったようです。1842年に12月5日に煙毒除けの梅干しを割り当てる人数を書き留めた代官所記録が残されています。それによると梅干しの割当を受けたのは、計860人、(さく岩夫:520人、さく岩夫の助手:253人、水替人夫:71人、坑内差配:16人)でした。この人数が生野銀山の労働者数と考えると、そのうち年間30人程度が煙毒でなくなっていたことになり、煙毒は職業病と考えられて当然でした。また、生野の有力者に煙毒対策の薬を施薬するので代金を寄付してくれ、という代官所からの要請のありました。その結果、実際に「煙毒薬」は施薬されたがその内容については不明です。いずれにせよ多数の煙毒患者に悩まされており、その対策費の一部が生野の有力者の負担になっていたことは間違いなさそうです。

2多紀元堅(1795〜1857)の煙毒予防法

1846年(弘化3年)の勝田次郎が生野代官在任中の庁書備忘録によると、多紀元堅は、鉱夫たちが坑内作業を終えた後にくしゃみをすることを推奨していました。これにより、肺に染み込んだ油煙の気が自然に開放され、咳の問題も改善されると考えられていたようです​​。当時の江戸医学館総裁でありながら、教条主義的でない態度はその人柄から来るのであろうと思われる。

生野銀山孝義伝にみる煙毒

生野代官勝田次郎は麗澤館をつくり学問を奨励しました。また銀山内の孝子、節婦、忠僕を表彰したりもしました。これら表彰されたものの中から13人を選んでその行状を紹介し、「生野銀山孝義伝」を著しました。その中で伯父を鉱山労働による煙毒でなくしたが、その伯父の看病をしたり、その死後も祖母を看病をしたりした少女の話があります。その中で煙毒に関し、石屑がが肺に入って、煙毒を発症し、30歳位で死ぬ、40歳まで生きるのは少ない、と書いている。